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朝青龍よ、目を覚ませ [相撲]

 

全勝の朝青龍に土がついた。

座布団に八つ当たりしたり、物言いをつけるべきだとほざいたりみっともない。

このようなことが続くとファンも減るだろう。

何があっても、勝負の世界では自分の責任として受け止めなくては横綱どころか

勝負師とはいえない。

しかも相撲には美学がある。「相撲道」がある。つまり「文化」である。

いくら強くても、強いだけではダメだ。強さは正義ではないのだ。勝ち負けだけが

相撲ではないのだ。結果がすべてではないのだ。そこにいたる日々の精進を本番

の取り組みに見て、人々は「お相撲さん」と呼んで尊敬するのだ。

礼儀知らずの露鵬にもこのことは言いたい。勝ち負けだけにこだわるのならK-1でも

なんでも格闘技の世界に行くべきだ。

北の湖理事長が現役のときは、北の湖が勝ち続けて、強すぎて、自分は先代貴ノ花

が好きだったので、はじめは大嫌いだった。

しかし黙々と場所をつとめる彼の姿にやがて感銘を受け、大好きになった。

勝ちだけにこだわり、千秋楽で白鵬と変わり身対決にならないよう、正々堂々と

正面から闘ってほしい。

「修養」に終わりはない。ドルジよ、原点に戻って、真の横綱、王者になられんことを

切に祈る !

 


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呑亀

昭和14年1月場所4日目(1月15日)(以下Wikipediaより)
双葉山は、約3年ぶりに安藝ノ海に黒星を喫し、69連勝で止められたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていった。同じ東方の支度部屋を使っていた横綱男女ノ川が、「あの男は勝っても負けてもまったく変わらないな」と語っている。

そしてその日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電している。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。同夜、双葉山は以前から約束されていた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝ならずのその夜のことになってしまったため、急遽敗戦をなぐさめる会の雰囲気になってしまったが、いつもと変わらず現れた双葉山の態度に列席者は感銘を受けたという。(引用)

(木鶏とは闘鶏の鶏が闘う態勢・用意が整っている様 呑亀)
横綱の心構えは相撲界の心構えであるべきですね。大相撲の国際化には賛成ですが、相撲文化が壊れていく姿は悲しいですね。現実社会も同じで
強いものは弱きを助ける社会でなければ危うい。現代の社会の病理の断面を見るおもいです。
by 呑亀 (2007-05-23 16:36) 

kaz-i

>呑亀さま
お久しぶりです。
コメントありがとうございます。
そうです、この言葉を探しておりました。
「いまだ木鶏たりえず」
凄い言葉ですね。
私は、木彫の鶏のように何事にも動じない様を
言っているのかと思いました。
いずれにせよ、この言葉、もって肝に銘ずべし!
です。
by kaz-i (2007-05-23 17:09) 

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