長崎2011年夏 その2 ~五島列島② [長崎]
五島(列島)は大小約140もの島々からなり、約43,000人の人々が住んでいる。
(無人島もある)その各地に約50もの教会がある。
今回は久賀島と福江島しか行けなかったが、いずれ他の教会も訪ねてみたい。
五島の教会の歴史はまだ不勉強だが、大村藩であった外海(そとめ)のクリスチャンが
東洲斎写楽たちが活躍していた寛政時代(18世紀の初めころ)に五島に移住してきたこと
が五島の教会建築のそもそもの始まりのようだ。
もともと五島にも信者がいたのだが、秀吉の禁教令によって壊滅状態となってから
約200年後の話である。
あまりいい加減なことは言えないのでこのくらいにしておきますが、五島の教会の歴史を
調べだすと日本のキリスト教史までさかのぼらなければならない、さらにはなぜバチカンは
日本にキリスト教の布教を始めたのかという所までさらに遡らなければならないので、いずれまた、
と思っていましたが、関連する事例だけ羅列すると、、、(結局少し調べてみた。ネットですがすみません;)
時はルターの宗教改革にさかのぼる。16世紀に権威を失墜させたカトリックはアジアの布教
を通じて権威を取り戻そうとしていた。このような事情が日本に宣教師がやってくるようになった
下地ともいえる。
フランシスコ・ザビエルが種子島にやってきたのが1549年。時の権力者は織田信長。
彼はクリスチャンを庇護していたが、そののち権力を握った秀吉は表向き禁教令を発した。
しかし九州にはキリシタン大名も多く、反乱を恐れ南蛮貿易のこともあり半ば黙認。
しかしサン・フェリペ号事件をきっかけに秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、京都で活動
していたフランシスコ会系の宣教師たちをとらえるように命じ、長崎で処刑した。
これが日本二十六聖人の殉教である。(1597年)
そして徳川の時代になり、はじめは無関心であった家康も、キリシタンがらみのある事件を
重く見てキリスト教を禁教とし、全国で迫害が行われるようになった。
これが17世紀の初めである。以後約250年間、日本のキリスト教徒は迫害される。
そして1637年の島原の乱に衝撃を受けた幕府は、1639年鎖国の令を発したのである。
これ以後キリシタンたちは地下に潜り、自由に信仰のできる日をひたすら待ち続けるのであった。
外海から五島にわたってきた信者たちも同じ思いであったろう。
ここから大浦天主堂が建ったときに信者たちがプチジャン神父を訪ねてきた1865年の「信徒発見」
明治になっても続いた弾圧「浦上四番崩れ」「五島崩れ」(久賀島の牢屋の窄の弾圧など)へと
つながっていく。
岩倉使節団が欧州視察を行った際に近代国家としてなんと野蛮な、と各国から非難を
浴びたため、ようやく明治政府はキリスト教禁止令をといたのであった。
1873年のことだった。
外圧に弱いのはずーっと昔からだったのですね。弾圧されるほうの人たちのことは誰も
考えられません。お上が決めたことなのですから逆らえないのです。
外海には「沈黙」を書いた遠藤周作の記念館があり、そこの文学碑には
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」と記されています。
さて、五島の二日目は、朝からレンタカーを借りて福江島を巡りました。
まずは奥浦にある堂崎天主堂。
そして楠原天主堂。
水の浦教会。
五輪教会とともに今回一番ひかれた教会でした。
そして夕陽で有名な三井楽にある三井楽教会。
三井楽の近く、柏崎に空海の碑があるというので足をのばしました。
柏崎灯台。
遣唐使最後の寄港地、三井楽で「辞本涯」=「日本の最果ての地を去る」という覚悟
を第16次遣唐使の一員であった空海は語り、東シナ海を渡って大陸を目指したのである。
姫島。
ここは日本の西の果てなのだ。
さらに貝津教会を巡って、高浜を目指した。
魚を扱う美女に由来する魚藍観音が海の安全を見守っている。
32年ぶりにやってきた高浜海水浴場は、ほとんど変わっておらず美しい砂浜だった。
五島うどんとおにぎりは海水浴の定番だ。
駆け足で回りましたが、五島はいずれまたゆっくり来てみたいです。
八十八か所もあるようですし。
もちろん教会にもそれぞれの歴史があり、自然が豊かで、人も穏やか、魚もうまい。
是非一度行ってみてください。
そしてまた長崎に戻りました。
>toroさん
ありがとうございます。
沖縄もいいですが五島はまた違った歴史があり
奥深いです。
魚がとにかくうまいっ!
by kaz-i (2011-08-29 12:13)