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追悼 若松孝二監督 [追悼]


若松監督が亡くなった。
 
12日交通事故に遭われたことを知り、快方に向かってばかりいると思っていたので
 
大変驚き、残念な気持ちでいっぱいです。 
 
監督は私が30年近く通い続けたバーで時々お目にかかっていた。
 
いつも豪快で、明るく、時には激しく映画のことなども語っておられた。
 
はじめてお目にかかったのはもう20年以上前のその店。ふらりと店に入ってこられた客が
 
若松監督と聞かされて、「水のないプール」「キスより簡単」「寝取られ宗介」を見たばかり
 
だった私は遠くから羨望の眼差しで見ていた。
 
それから時々お会いするようになっても、怖くて近づけなかったが、何度かお会い
 
するたびに、監督の話に聞き耳を立てながら、だんだんじりじりとそばに近寄っていった。
 
私が何をしているのかを、知っているのか知らないのか、「最近は儲かってるの?」
 
と必ずやさしく聞いてくれた。
 
「われに撃つ用意あり」にはゴールデン街や新宿の街がたくさん出てきた。
 
新宿が好きだったと思う。
 
「連合赤軍」を撮る前は、「 突入せよ!」を、あんな権力側の映画なんて最低だ!
 
と猛烈に批判していた。そして、おれが連合赤軍を撮る!とおっしゃっていたのを横で
 
聞いていて拍手した。そしてそれはすぐに実現した。
 
資金を調達し、ロケでは自分ですいとんを作り、若い役者さんたちに食べさせたと聞く。
 
そして浅間山荘に見立てた自分の山荘を、撮影で全部ぶっ壊した。
 
さすがに少し寂しそうにしていたと、あとから聞いた。 
 
「17歳の風景」「連合赤軍」「キャタピラー」「三島由紀夫」「海燕ブルー」、、、、、、
 
真っ直ぐな若者たちの心情、そして悲劇を描いて見事だった。
 
訳知りのインテリたちを現場の力でぶっ飛ばし、純粋な若者たちに寄り添っていたように思う。
 
中上健次の「千年の愉楽」ができたばかりだというのに。
 
肺がんや脳血栓やたくさんの病気にもかかわらず元気に映画を撮っておられたので、不死身
 
だと思っていた。
 
名古屋で「キャタピラー」の試写会があったときに、楽屋に挨拶に行ったら「来てくれたの!」
 
とごつい肉厚の手で私の手を握りしめてくれた。 
 
名古屋駅前には監督の作った「シネマスコーレ」という小さな映画館が今も頑張って、メジャーで
 
ない映画をたくさん上映している。監督命名の 「スコーレ」は学校という意味だ。
 
権力が嫌いで、映画が好きで、信念があって豪快で、明るく、偉ぶらず、決して言い訳もせず、
 
シャイで、喧嘩が強く、優しかった監督。かっこよかったです。
 
ありがとうございました。お疲れ様でした。さようなら。
 
合掌。 
 
 
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2010年3月「らいら」30周年を祝う会でスピーチする若松監督。
 
場所:新宿・浪曼坊 撮影:植嶋政義 
 
若松孝二公式ブログ

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大内 哲

事故に遭われたのが新宿であると伺い、ああ、きっとこの日もあの街角を曲がって止まり木に向かっておられたのだな、と胸が痛くなりました。私はホンの数回しかお話し出来ませんでしたが、豪放磊落でいつも漲る力に溢れている方でした。新宿の思い出がまたひとつ消えていきました。
by 大内 哲 (2012-10-18 10:16) 

呑亀

北関東の海辺の民宿で若松孝二の死のニュースを知りました。
貴君のブログの通りの人でした。人間若松孝二と長く語ることが出来たことを幸せに思います。簡単に過去形にはできないのですが、いずれ献杯をいたしましょう。
by 呑亀 (2012-10-18 11:24) 

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