はじめは状況がわからず、「被害は軽微」と報告されていたのが、徐々に被害の全貌が
明らかになっていく様子が、生々しく記録されている。(長崎原爆戦災誌より)
交換台跡。ここから情報が発信されたと思われる。
こんな穴倉の中で、ただただ情報を発信するほか、何ができようというのか。
十数年ぶりに訪れた夏の長崎には、まだまだ原爆や戦争のにおいが残っていた。
]]>子供たちはこんなにも世界の平和を願っているのに、世界から、核兵器はなぜなくせないのか。
もう一度勉強したい。
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大山崎山荘美術館を後にして、夕方まで何も予定がなかった。
山を降りて、JR山崎駅の方へ向かったのだが、近くにサントリー
山崎工場があることは知っていた。
インターネットで工場見学の予定を見たらすべての時間が予約で満
員だったのだが、入口まででも行ってみようとテクテク約10分ほど
線路沿いの道のりを歩いた。
霧にけぶる山の麓にドーンと工場があった。
この霧が発生するような土地がまたウィスキー作りにはいいらしい。
工場の入口の受付に行って、恐る恐る聞いてみたら
、、、ちょっと後の時間に空きがあるというではないか。
と、いうわけで、工場見学をしてきました。
小学校の時に、長崎の長工醤油、雪印の工場や、転校した博多で
北九州工業地帯に行ったことを思い出す。
三年ほど前に京都・伏見の月桂冠や黄桜も行ったっけ。
もちろん試飲付き。試飲、試食は工場見学の楽しみのひとつです。
30人ほどのグループでガイドさんに連れられて中をめぐる。
あんなにがぶがぶ飲んでいるのに、ちっとも工程を知らなかった。(反省)
まず砕いた大麦をお温水に入れると、麦のでんぷん質が糖分に変わる。
濾過した液体に酵母を加えて発酵させもろみとなる。
だから醤油や味噌の香りがした。
そんでもって、そのもろみをこのでかいポットスチルという蒸留器にいれ
二度蒸留する。
ここには12台のポットスチルがあり、形がそれぞれ違っている。
ポットスチルの形によって出来上がる原酒(ニューポット)のタイプが
違うそうだ。
この原酒はアルコール70%くらいで透明の液体。
そんでもって、ニューポットをホワイトオークなどで作った樽に入れ長期間
貯蔵する。
樽の成分が原酒に溶け出し、あの琥珀色を作る。そしていらない成分が
除去されるようだ。
そして、「山崎」は(「白州」も)同じ蒸留所のモルトウイスキーの原酒だけを
組み合わせて作っている。
これが「シングルモルト」だ。(ほかの原酒との組み合わせで作ったものは
「フレンデッドウイスキー」※響やローヤル
そしてこれらの原酒をブレーンダーと呼ばれる職人さんたちが、ブレンドして
ひとつのウイスキーとして完成させるのだ。
これは80年くらい前に作られた山崎工場第1号の樽。
ひっそりと静かだが、日本のウイスキーの誕生を今に伝える輝かしい自信に
満ちた存在感を醸し出していた。
見学の終りは山崎、白州の試飲。ハイボールやロックやストレート
で味わいながらゆっくり飲ませていただきました。
いつもと違う味がしました。
とても美味しかった。
山崎駅のすぐそばに、利休が作った茶室「妙喜庵」(国宝)もある。
※往復はがきで予約制
工場見学はモノの成り立ちを楽しく学ぶことができ、商品に対する
尊敬の念が生まれる。
そして、、創業者や作る人たちの夢や思いを、跡を継いだ人たちが
とても大事にしていることがよくわかる。
工場見学に行きましょう!
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(文章の一部はWikipediaのパクリ・コピペです。ブログもだめなのか!?)
加賀正太郎は壽屋(現サントリー)で山崎蒸溜所をたちあげたものの
オーナーと離れ独自でウイスキー製造に乗り出した竹鶴政孝を支援して
ニッカウヰスキー創立に参加した。
いまやニッカはアサヒビールの子会社。
いろんなご縁があったのですね。
1年ぶりの帰郷は雨の長崎。
折しもランタン祭りの真っ最中で街が赤く染まっていました。
今年の干支は「午(うま)」
清水崑作かっぱの「ぼんた君」と子鯨。
崇福寺に足を伸ばす。
雨もなかなかいいものでした。長崎は雨が似合う。
翌日の土曜日はいい天気でした。
しかし東京は45年ぶりの大雪でしたね。
母の墓参りに行くと梅が咲き始めていました。
日曜日はまた曇りでしたが、親戚友人たちと久しぶりに再会したり、中華を食べたり、
ランタンの街をのんびり散歩したりしてきました。
「祈りの丘絵本美術館」
南山手にあります。
とてもおすすめの場所です。
http://www.douwakan.co.jp/museum
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キネマ旬報ベストテン第1位。おめでとうございます!!
うれしかった。
「女生きてます」シリーズの森崎東がこの映画を撮ると聞いた時から
完成が待ち遠しかった。
原作の漫画も読んだ。
私のふるさとでもある長崎の町のあちらこちらが出てくるお話は
主人公のゆういちが自分にもダブり、ペコロスの母が亡き母や祖母や
親戚のおばさんたちにもダブり、引き込まれていった。
映画が完成。名古屋の初日を見に行った。
主人公のみつえは認知症が進んだときに、会えなくなった人たちみんなに会えた。
ボケも悪かことじゃなかかもしれん。泣いた。
ゆういちのような息子がいてしあわせなのかもしれん。母の幸せが息子の幸せとすれば
ゆういちも幸せ。
漫画のほのぼのとしたタッチにも似て、映画もほのぼの進んでいくが、さりげなく鋭い
現実が織り込まれ、ラストの感動につながる。
森崎東の執念、思いがものすごく伝わってきた。 映画の力をあらためて感じさせられた。
年をとったせいかもしれません。
ロケで出てきた斜面地の近くにかつて私の母のおばが住んでいて亡くなる数年前に一度
訪ねたことがある。
そのおばは戦後すぐご主人を亡くされ 、辛い仕事をやりながら娘三人を育てられた。
十年ぶりくらいに会った私を見てそのおばは(もう九十歳を越えていた)開口一番、
「どげんしたとね、その頭は!」
と私の薄くなった頭を見て大声を出したことを思い出した。おばはそのとき私がまだ子供
だった頃に戻ったのかもしれない。
関係者の皆さんお疲れさまでした。そしておめでとうございます。
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毎日暑い、いや熱いですね。
お盆にせっかく来ていただく祖先の霊も、あまりの暑さにあの世に
引き返しはしないでしょうか。
外出する皆様お気を付けくださいませ。
先月7月27日~28日長﨑の新上五島町へ行ってきた。
「世界遺産となる上五島の教会とキリシタン遺産を訪ねて」というツアーに参加
したのです。
このツアーには野下千年神父(カトリックセンター、長崎県宗教者懇話会会長)、と
柿森和年氏(長崎の教会群を世界遺産にする会事務局長)のお二人が同行して
お話をしてくださるという豪華な旅だった。
私は名古屋から長﨑に前日入り、翌7/27朝、長﨑からジェットフォイルで
2時間ほど。福江経由で奈良尾港に着いた。
初めての上五島に胸が高鳴ります。
新上五島町は平成16年8月1日、有川町・上五島町・若松町・新魚目町・奈良尾町
の5町が合併して誕生した。中通島・若松島とその周囲を主な町域とし、その周辺部に
有人島5島、無人島60島を含んでいる。
故白浜仁吉元郵政大臣(旧若松村)、本島等元長崎市長(旧北魚目村)、第50代横綱佐田の山
晋松(旧有川町)などの方々を生んでいる。
コースは盛りだくさんで、桐教会、ハリノメンド(針の穴;子供を抱いたマリア様に見えるそう)一帯の
キリシタン洞窟、中ノ浦教会、大曽教会、頭ヶ島教会、竜馬ゆかりの地(ワイルエフ号事件)、青砂ヶ浦
教会とまわって一泊。
翌日無人島の野崎島へ渡り、野首天主堂、江袋教会、冷水教会、矢堅目(塩で有名)鯛ノ浦教会、
浜串教会、希望の聖母像など上五島に29ある教会のうち10数箇所を回るというもの。
長いキリシタン弾圧の歴史的背景と、農漁業集落と一体になった文化的景観が世界遺産の
登録にふさわしいとされています。
今年の九月に世界遺産の日本の代表が決まるそうです(1年に一つ。昨年は富岡製紙工場
に先を越されてしまった)
2015年は250年にも及ぶ禁教のあと、大浦天主堂で奇跡と呼ばれる信徒発見から150周年。
そして被爆70周年。その記念すべき年に世界遺産に登録されるよう、応援の気持ちも込めた
ツアーだった。
まずは奈良尾港から近い桐教会を訪ねる。
ここの信者ガスパル与作が長崎を訪れた時に大浦天主堂のプチジャン神父と出会い、五島
キリシタン復活の道を開いた。
ガスパル与作たち「信仰の先駆者顕彰碑」
桐教会の中。
次に若松島のキリシタン洞窟へ海上タクシーで向かう。
若松島の里ノ浦のキリシタンは、明治初めの五島崩れの際、迫害を避けて船でしか行けない
険しい断崖の洞窟に隠れたのですが、焚き火の煙を船に見つけられて捕縛され拷問を受けた
そうだ。
ハリノメンド(針の穴) がみえてくる。
子供を抱くマリア様に見える人には見える。
この洞窟は後にキリシタンワンドとよばれ、1967(昭和42)年入口に十字架と3mのキリスト像
が設けられた。
これです。
こんなところに信者たちは隠れていたのだ。
外海(そとめ)や大村から弾圧を逃れたキリシタンたちは安住の地を求めて
この地にやってきたのに、さらに追い詰められ、捕えられたのだ。
中ノ浦教会。
水辺に建っている美しい教会だった。
五島のシンボル「椿」のデザイン。
大曽教会。
1916(大正5)年、鉄川与助の設計施工で現教会堂が建てられた。
頭ヶ島教会への道。
石造りの天主堂。
国指定重要文化財。これも鉄川与助の設計施工。
教会近くの墓地。五月には赤いマツバギクの花で一面が埋め尽くされる。
潮騒の音が聞こえる。
安らかにお眠りください。
龍馬像の建つ広場を経由して青砂ヶ浦教会を巡り新魚目地区にあるホテルへ。
去年三月にオープンしたホテル「マルゲリータ」
http://www.margherita-resort.jp/
上五島に忽然と現れたオアシスのようで長期滞在でもしてみたい。
風呂は大きく朝日も夕日も見えるそうだ。
スタッフのサービスもとてもよかった。この日は和食中心にしてもらったが、腕のいいイタリアンシェフ
がいるので、みなさん、特に女性の方々お勧めですよ。
翌日は上五島の先端から海上タクシーで野崎島へ。
ここは現在キャンプ場の管理者しかいない無人島だが、ここに野首教会がある。
船着場から山道を歩くこと20分。海に向かって建つ教会が現れた。
かつてはここで多くの祈りが捧げられたことだろう。
まわりには誰もいなくなった石垣と住居の跡が数多く残っていた。
これも鉄川与助の作。
鉄川与助についてはこちらをご覧ください。仏教徒でありながら数多くの教会を建てられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9
http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/
鯛の浦教会近くのキリシタン墓地。
江袋教会。2007年の火事から見事に再建された。
最後に浜串教会を巡り近くの海を見守る希望の聖母像へ。
海の安全を見守っておられる。
1614年徳川幕府の禁教令から1873年のキリシタン禁制廃止まで約250年間。
長い長い潜伏の果てにようやく日の目を見たキリシタンたち。その72年後の8月9日11時2分。
浦上の信者たちの頭上で一発の原子爆弾が破裂。すべてを焼き尽くした。
なにもないところに自分たちの力で教会を建て、弾圧されながら信仰を忘れず、現代まで
続く彼らの祈りにはただただ頭が下がるばかりだった。
一つ一つの教会を巡りながら命のつながりを深く感じた旅だった。
皆様お久しぶりです。
病気もせずに生きておりました。
相変わらずあちこち出没したり、名古屋で引越したりして(名古屋では二度目)し、気付いたら
夏真っ盛り、戦後68年目の夏。今日は広島原爆忌。
先週、半年ぶりにこのブログを更新しようとしてID、パスワードを入れても、うんともすんとも言わず、
ようやくサポートデスクと連絡がついた。
以下のことのようでした。
・・・前略・・・
ログインにつきまして、ご案内いたします。
お客さまのユーザーIDは、2013年5月20日に弊社にて変更しており、
現在【XXXXXXX@XXX】でございます。
パスワードに変更はございませんので、大変恐れ入りますが、
上記ユーザーIDと、これまでのパスワードをご利用の上、
ログインを行っていただけますよう、お願いいたします。
・・・中略・・・
■ユーザーIDの変更について
昨今、インターネット上では、ユーザーIDを不正に取得、
利用した事件が多発しており、そのような事件に
巻き込まれないためには、他人にユーザーIDを
知られないようにすることが重要となります。
お客さまの以前のユーザーIDは、メールアドレスの一部と
同じ文字列のため、他人がお客さまのユーザーIDを
推測できる状態でございました。
そのため、弊社では、所定の期日までに、ユーザーIDを
ご変更いただくよう、メールにてご案内をお送りしており、
期日までにお客さまによる変更が確認できない場合には、
弊社にて自動変更を実施する旨をご通知いたしておりました。
今回、所定の期日までに、お客さまによる変更手続きが
確認できませんでしたため、大変恐れ入りますが、
弊社にて自動変更いたしました。
また、ユーザーIDは、現在のユーザーIDから変更することも可能です。
ユーザーIDの変更は、下記Webページよりお手続きいただけますので、
変更をご希望の場合は、ご利用ください。
・・・以下略・・・
そうだったのか。 私に代わって変更してくれていたんだ。
わがままを申せば、変更した後のことをお知らせしてほしかった。
気づくまで時間がかかりましたよ。
春頃何かバタバタしていて、そんなメールが来ていたような気もするがすっかり忘れていて
ブログも放置していたためこんな事態になりましたが、ようやくまた復活いたしました。
またよろしくお願いいたします。
1988年8月公開『TOMORROW 明日』(トゥモロー あした)
長崎の原爆前夜の話です。
私の両親や祖父母、親戚たちのことを見ているような気がして岩波ホールで見た後、
都営線神保町駅のホームで号泣したことを覚えている。
上五島・浜串 漁師たちを見守る希望の聖母
皆様ご自愛ください。
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