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命日 [雑文]

母の命日がまもなくやってきます。

今度の2月13日でもう三回忌になります。

私の母は、肺がんで2年前に亡くなりました。

これまで、母の死の事は何も書けずにいたのですが、2年が経ってちょっと書いてみたいという

気持ちになりました。

母は、10年前に一度肺がんの手術をしたのですが、その後の定期健診の結果にも異常が

見られず、5年以上たったので完治したお祝いをしようかと家族で話し合っていた矢先の年末

に、胸のところに新たながんが見つかったのです。

それから1年余り、母はがんと闘いました。

 

放射線治療、退院、再入院、抗がん剤治療、自宅療養、呼吸困難に陥り救急車で再入院、

そして気管を拡張する「ステント」という器具を気管に挿入する手術もしました。

 

病状も一進一退。気力が萎えた母を励まし、食欲が回復したときなどは病気が治るという

希望の光が見えたようで本当に嬉しかった。

 

仕事のために、いったん東京に帰ることがあると母は私にベッドの上から、

「きばらんば」

とエールを送ってくれました。

   ※「きばらんば」とは長崎弁で「精を出して頑張らないとね!」という意味です。

 

手術の4日後、集中治療室で母は静かに息を引き取りました。

手術をした日はちょうど母の誕生日でした。

その日は数日前から容態が悪化して、予断を許さない状態が続いていました。

私は父と二人で病室の前の廊下に、担当医師から呼び出されました。

 

手術をしても命の保障はありません。しかし今手術をしないと今日までしかもちません。

手術をするかどうか家族で決めてください」

 

そういう趣旨の事を言われました。

母は苦しい気管支の内視鏡検査を何度も受け、検査をとても嫌がっており、

「もうこれ以上苦しい思いをさせるのは沢山だ」との思いと「手術をしたらひょっとして回復する

のではないか」との思いが交錯し、父と二人でどうすべきか悩みました。

結果、母の手術をしてもらうほうを選択しました。

「手術をしないで、長く生きられたかもしれない命を、私達が奪っていいのか」という気持ちが強く

なったからです。

 

手術をしたのがよかったかどうかは、色々な思いがあり、簡単に結論を出せませんが、父も私も

弟たち家族も「母は絶対に治る」と最期まで思い続けていました。

 

様々な民間療法も試しました。効果があるのかどうか全然分かりません。金儲けの手段じゃない

のかと疑うことも多々ありました。

でも、すがるしかなかったのです。病気が治りそうなことは何でもやりたいと思っていました。

自宅介護の問題にも直面しました。私は休職して実家に帰りました。

そして、介護の基準に腹を立てたりもしました。

一人では動けない状態になっても、「介護3」という判断を下され、不服を申し立てて、再審査の

結果がまた同じ結果。

早く退院しろという病院、医師のこころない言葉に、看病していた親戚と傷つき、怒ったたことも

多々ありました。

自宅を改造して、手すりなどをつけるという私達に、医師は母の寝ている病室で、

「(そんなことをするのは)やめた方が良いと思います。そこまでは・・・・・・」

・・・・・・もたないと言いたかったのだろう。

母は、じっと医師の目を見ていました。

「これ以上入院しても、治療法もないし、コストが・・・・・・」といった医師もいました。

さすがに父は怒りました。「コストとはなんだ!」と・・・。

医師は、家族のことも考えて言っているのかもしれませんが、あまりにも無神経な言葉や、

言うタイミングの悪さに、たびたび傷つき、憤慨しました。

治療にはお金もかかります。

日本では金がなければ、早く死ね、ということなのかね、と皆で冗談を言ったこともありました。

仕事とはいえ、看護士さんや(看護婦といったら今は看護士というのだよ、と母に教えられました。

この言葉を知ったのも母の入院中のことです)、ヘルパーさんたちの献身的な働きぶりには頭が

下がり感謝しました。

 

10年前と比べれば、治療法も格段に進歩し、情報も多く公開されています。告知の問題なども

随分変わりました。

また、セカンドオピニオンなどもこれからはますます重要になってくるでしょう。

母は、故郷では大きな病院に入院していたのですが、もっと早く都会の病院に変わっていたらと

の思いも、後になって残りました。

もっともっと情報を共有して、何かあったときは、優秀なスタッフのいる、設備の整った大きな病院

に行くべきだと思います。

これは理想ですが・・・・・・。

病気になっても、お金などによってその待遇に個人差があるというのは、何が人類の進歩かと

思いますね。

お金の使い道をもっと考えましょう。何が勝ち組なのでしょうか?何が負け組なのでしょうか?

 

はっきり感じたのは、医療には限界があり、医師も万能ではないということです。

そして病気のとき、やはり大事なのは家族の支えです。

 

まだまだ思い出す事、考えることが沢山あって書ききれませんので、また、機会を作って書くこと

にしたいと思います。


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コメント 4

toro

TBをありがとうございました。じっくり読ませていただきました。
2月が命日の方が多いのでしょうか…。うちの父も2月でした。寒いからなのかな。。。悲しみも寒さで一層深まるのが何とも切ないです。
うちの母は潔いというか、余命いくばくもないというわけではないのに、最期までどう過ごしていくか、ということを既に考えているようです。おそらく残していくだろう人たちに迷惑をかけないように、という気持ちからなのだと思うのですが。
私はその気持ちをありがたく受け取って、できるだけのことはしていきたいと思っています。
kaz-i さんのされた経験を読ませていただいて、「なるほど、こういうことがあるのか」と勉強になりました。自宅介護、在宅医療については、勉強途上なのでいろいろ知識を得ていきたいです。また何かありましたら教えてください。
by toro (2006-02-02 09:31) 

kaz-i

>toroさんnice!&コメントありがとうございました。
若い頃はろくに実家に帰らず、親のことなどあまり顧みなかった私は
看病をして、人間としての母親を知ることができました。
それまではあまりにも両親のことを知らなさすぎていました。
友人たちも数多くが親の高齢化で、いろいろな悩みを抱えているようです。
できるだけ多くの時間を一緒に過ごすことが、いろんな意味で大切なように
思います。
そして、こうすればよかったああすれば、という思いは残ったにせよ、自分なりの看護ができたと言うことは、職場や友人など周りの方々の理解と協力があったからこそだと感謝しています。
最後に思ったのは、「ああ、この母の子どもに生まれてよかった」という気持ちでした。
何かあったらまた聞いてください。
また折を見て書いていきたいと思います。
by kaz-i (2006-02-03 08:28) 

呑亀

kaz-i様
母上の亡くなられるまでのお話、やはり肉親でなければわからないこと多いですね。つまり病院の出来ること(現代科学の出来ること)には限界があり、彼らがこれ以上出来ないと判断したら、実は患者ではなくなる怖さは本質的に変わらないのだと、自分の経験とあわせて再確認いたしました。小生の場合、実父の臨終の場にいたのは私だけでした。医者が、心臓マッサージをはじめ
ましたが、まもなくどれ位続けますかと質問され、思わず家族が来るまでと答えてしまいました。本当は父親の静かな顔お見ていたら、もうやめましょうと言えば良かったと今でも思っています。それは最後の日の最後の一時間位の話ですが、家族と患者と病院とがもう少し人の死について医学や科学でない観点で理解できないと解決しない問題だなと思いました。
by 呑亀 (2006-02-06 16:42) 

kaz-i

>呑亀さま
コメントありがとうございます。
久々に山に登って、下界を見下ろしたいと思っています。
そしてしみじみと、旅立って行った方々の事をしのびたいと思います。
by kaz-i (2006-02-08 14:01) 

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